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トイストーリー4の感想

昨日、トイストーリー4を劇場で鑑賞した。
最後のシーンで涙なくしては見れなかったのだが、そのときに自分が何故泣いているのかがいまいちわからなかりませんでした。


そのあたりも含めて順を追って感想をつらつら述べるので、よろしくです。
ネタバレになるので、未視聴の方は見ないことをおすすめします。


① ウッディの孤独

ウッディといえば本シリーズの顔、いわばアルトリア・ペンドラゴンなわけです(オイ
そんな彼は物語冒頭からある問題を抱えています。


4ではアンディの元を離れ、新たな持ち主ボニー(女の子)のおもちゃになります。
月日が経ち他のおもちゃが選ばれる一方で、ボニーと一緒に遊ぶことが少なくなります。


そんな折に新たな仲間フォーキーが来ます。ボニーにとっては一番の友達になります。


ワクワクさんアイテムから錬成されたフォーキーはおもちゃという概念がなく自分のことをゴミといいます。しかし、周りから見れば立派なおもちゃです。


おもちゃの自覚がないままフォーキーが旅行中に遭難して、それを助けるというのが大筋です。


ウッディに対する扱いで今までとは違うことに気付きました。


「ボニーはウッディの名前を一度も呼ばない」のです。
(私の記憶違いでしたらすみません)


ここが辛かった。ウッディ目線で見てしまいがちですが、よくクローズアップして表現しているなと感心しました。


そもそもウッディは持ち主を喜ばせることが大きな原動力となり活躍してきました。
結果ウッディはアンディと幸せにやってきましたが、ボニーの元ではそれがありません。


そのことにうすうす気付いていたところにフォーキーがやってきて、うらやましい気持ちがありながらもやさしく導いているのが、彼の良いところだなと改めて感じました。


フォーキーがいない間、ボニーはウッディがいないことを気に留めるしぐさがなかったのが、いやらしくもボニーにとってウッディが必要ないことの表現だったかもしれません。


ここからおもちゃと持ち主の別れは「所有」ではなく、「一緒に遊ぶ」が重要な線引きだという解釈をしました。


② おもちゃの使命vs内なる声との葛藤

前述したように、トイストーリーの中では持ち主を喜ばせることがおもちゃの主義である一方で、自身がいつかは必要なくなることを受け入れています。


ウッディはおもちゃの使命=自らの意思となり重複しています。
これをウッディは内なる声といい、自我を獲得している表現がうまいと思いました。


吹き替え版を見たのでどんな英語を使っているのかわかりませんでしたが、気になるところです。


同じようなこと聞いたことあります。「そう囁くのよ、私のゴーストが」



物語は中盤から自由奔放なおもちゃたちと接するようになり、ウッディとは異なる価値観「持ち主がいないおもちゃの存在」について考えるようになります。
それは、いずれ訪れる近しい運命の示唆でもあると解釈しました。


旧友ボーとの出会いや様々な持ち主のないおもちゃ(アンティークショップの面々)との交流により、今まで体験したことのない広い世界とボーにあこがれを持つようになります。


しかし、彼の心は未だおもちゃと持ち主の良好な関係を目指しています。


一度は失敗するもののボイスボックスと引き換えにフォーキーを救出、更にはギャビーギャビーの望みをかなえるように働きかけます。


ここはウッディが眠れる運命の奴隷である一方で、自我に目覚めだす鼓動を感じざるを得ませんでした。
きっとどこかでボニーに捨てられた後のことを考えていたのかと思うと、寂しい気持ちになります。


ギャビーギャビーに自分を重ねていたからこそのボイスボックスのやり取りから、受け入れられなかった時のフォローへときれいにつながります。


自分が持ち主にとって必要ないおもちゃであることを意識せざるを得ない構成になっており、素晴らしいながらも悲哀に溢れるウッディを描いていました。


③ インディビジュアリズムと受け継がれる黄金の精神

物語の終盤では、みんなと再開すべく奔走する中でおもちゃとしての意思に気付かされる。
ここでのキーパーソンはバズです。


やっとのことで戻ってきたウッディはボーと別れます。このシーンが非常にドラマチックでトイストーリーがラブストーリーになりました。


名残惜しみながら仲間のもとに戻ったときに、バズはある言葉を放ちます。



「大丈夫。ボニーはもう大丈夫だ。」



その言葉の意味は初め自分はわかりませんでした。
つまり「戻ってこなくてもボニーは喜んでいるし、この先もウッディがいなくても大丈夫さ。内なる声に従っていいんだ、君は自由だ。」という意味でしょう。


この意味を悟ったウッディは仲間に見送られながら、ボーたちと共に外の世界で生きていきます。


一方、フォーキーはおもちゃとしての存在意義や役目をウッディから受け継ぎ、立派にボニーを楽しませます。


様々なおもちゃの末路や人とのギャップを目の当たりにしてきたウッディだからそ、この旅立ちエンドだったと思います。


ただ、ウッディがみんなの元を去っていくことが悲しかったので、不覚にも涙してしまいました。


しかし、それはトイ側のストーリーを知っているからでしょう。
きっとボニーと家族はそうは思わない。でも、人を楽しませる存在としておもちゃはあり続ける。世代や時を経てもおもちゃの概念は存在し続けることを、改めて意識するようになった。


今あるものも大切にしようと感じざるを得ない。

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